平安朝香道とは

”日本唯一”の古典香道の流派です。
薫物の歴史は世界的に見ると二千年、日本においては千年の歴史があります。平安朝香道は、貴重な日本文化を復興し普及することを目的として、平成17年3月27日に発足し、当道の流儀披露目である「燻り初め(くゆりぞめ)」を18年2月25日に催しました。
薫物(たきもの)香道の原点であり最盛期の平安朝様式を希求していることから、平安朝香道の牌標を掲げていますが、当道は唯一の古典香道の流派であり、芸術性を重んじていることが他の流派と大きく異なるところです。
このように、当道が古典香道と位置づけられるのは、薫物という流儀が最盛期の平安時代から江戸時代中期まで存続したことに依拠します。徳川家康が薫物の書である「香の覚え」を記したことも知られています。
これまで、平成18年4月には600年前に廃れてしまった幻の香「占唐」の復元に初めて成功し(詳しくは「承和の秘方」を復元をご覧下さい)
また、12月には『源氏物語』を代表する香りである「百歩香」の復元いたしました。(詳しくは「承和百歩香」を復元 をご覧下さい)
これらの成果に基づき、多くの方に平安朝の薫物の素晴らしさを知っていただくため門戸を開きましたが、優雅で奥深い薫物だけでなく、掛香(かけこう)、訶梨勒(かりろく)、衣香(えこう)などの稽古も行っています。(詳しくは入門をご覧下さい)
当道では「伝統文化の復興」という公益的観点から流儀の普及活動を行っています。
また当道では、誰もが手軽に本格的な平安朝薫物を作ることを目標とし、古方に学び楽しむだけでなく、その思想に基づいて薫物の創作を行い、毎年秋季に開催する「薫物合わせ」だけでなく、季節毎に「源氏合わせ」を催しご披露しています。(詳しくは「源氏合わせ」をご覧下さい)
歴史の大波に消滅の危機にあった平安朝香道、
甦えりの軌跡
日本文化が海外(特に中国)のそれから独立し、
独自の開花期となった平安時代。
貴族たちの日常のたしなみとなっていた香道は、
平安時代が終わるとともにその存在感を次第に失っていきました。
そして鎌倉、室町、戦国時代、そして江戸時代と、
時代が進むにつれ、ついにはごく一部の香りの守り人たちの間で細々と命を保っていたのです。
それを現代に甦えらせたのが、私たちの初代宗師(家元)長谷川景光であり、
長谷川は大学で学生たちの指導に勤しむ傍ら、
平安時代の膨大な古書に埋もれる日々を続け、
平安朝香道の奥深さと魅力に傾倒、
そしてついにそれを現代に甦えらせることに成功したのです。
では平安朝香道とはそもそもどんな香道なのか
当道の初代宗師である長谷川景光が自らつづった文章がありますので、
紹介させていただきます。
当道の祖、藤原冬嗣
平安時代の初めに、時代を画し日本文化の基礎を築いたと言えるような文化隆盛が興ったことは、ご存知でしょうか。
その中心人物が嵯峨天皇であり、淳和天皇、空海、最澄、橘逸勢、そして藤原冬嗣(ふゆつぐ、宝亀5年775~天長3年7月24日826)他によって文化人グループを形成していていました。例えば、嵯峨天皇は唐の国の茶の流儀を導入するため、最澄には茶と茶器の聖地である最澄には天台山の仏隴寺に遣わし、茶頭である行満に師事させ、淹茶法を伝えさせただけでなく、茶種を持ち帰ったとされています。また、空海については、『弘法大師年譜』に「大師入唐帰朝の時、茶を携え帰って、嵯峨天皇に献ず」とあります。
この、日本初の茶道だけでなく、嵯峨天皇は日本初の薫物香道を藤原冬嗣(ふゆつぐ)に究めさせ、書道は空海、橘逸勢が三筆の二人と位置づけられます。また、この文化人グループの詩が、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に収載されており、嵯峨天皇は詩人天皇とまで称されています。さらに、雅楽の国風化に尽力し、作曲、改作を奨励し自らも鳥向楽を作られました。
さて、冬嗣は嵯峨天皇の文化人グループの一員として詩集に作品を遺しているだけでなく、前述のように日本初の薫物香道を確立した人物です。嵯峨天皇の側近として信頼が厚く、太政大臣が追号されましたが、当道の宝鑑・勅撰『薫集類抄』には閑院左大臣の名で記されています。
平安朝薫物の同義語として扱われる六種(むくさ)の薫物において、冬嗣が原基となる合香家であり、筆頭に掲げられています。すなわち、梅花(ばいか)、侍従(じじゅう)、黒方(くろぼう)の薫物を最初に作り、平安朝薫物の礎を築いただけでなく、わが国最初の香道家であると位置づけられるのです。
永井路子著の『王朝序曲』(角川書店刊)の主人公として描かれるほど、魅力的で多才な人物ですが、残念ながら香道家としての側面はあまり知られていません。
最古の薫物指南書・勅撰『薫集類抄』
土御門天皇の曽祖父で、紫式部の血胤(来孫)である平安末期随一の知識人、それが藤原範兼(ふじわらののりかね、嘉承2年~長寛3年1107~65、通称岡崎三位。)です。歌人、歌学者として知られていますが、二條天皇に元号考案を命ぜられただけでなく、長寛年間(1163~65)に『薫集類抄』の撰修を命ぜられました。
この勅撰『薫集類抄』は、わが国に現存する最古の薫物指南書であり、当道の宝鑑(手本となる書物)と位置づけています。
薫物に関する書物は多い中で、前述の実隆の家伝書『四辻家薫物書』のような私撰書とは異なり、公的な勅撰書として纏められた『薫集類抄』は、その格式だけでなく信憑性、歴史性という観点からも極めて貴重な書物なのです。
(注)『日本書紀』が勅撰史書であるように、「勅撰」には「勅命により編纂された書物」の意があります。
勅撰『薫集類抄』は、「諸方」の帖から始まり、27種、107方もの貴重な調合法が収載されています。そして、26人の合香家の名は時系列に並べられており、同じ名の薫物でも合香家によってその香りは驚くほど異なり、この時代の美意識と感性の豊かさを感じます。
同書には、この他に飲む、塗る、入浴に用いるなどの合香の方(調合)が示されています。
また、和合(ブレンド)した薫物は、埋み(うずみ)という熟成を行います。薫物の天敵は黴(かび)ですので低温熟成が基本です。(当道では特別の方法を代用して簡単に熟成させます。)ところが、加熱し発酵させる指示がある方もあるのです。「控えめであり秘することが雅(みやび)」とされた平安時代の美意識によって書かれた文献を読み解くのは難しくもあり、また楽しくもあります。
勅撰『薫集類抄』に収載されている諸方の筆頭に掲げられているのが冬嗣の梅花の方です。
閑院左大臣
梅花
沈八両二分 占唐一分三朱 甲香三両二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二両二分
麝香二分 薫陸一分(二分の説有り)
侍従
沈四両 丁子二両 甲香一両已上大 甘松一両 熟鬱金一両已上小
黒方
沈四両 丁子二両 白檀一分 甲香一両二分 麝香二分 薫陸一分已上大
平安の薫りはフレグランス
映画「パフューム ある人殺しの物語」(2006年、パトリック・ジュースキント原作)は、18世紀のヨーロッパを舞台にした天才調香師の物語ですが、この中で登場する香水の調合に蘇合香(そごうこう)が使われていました。
蘇合香は、古代エジプトのキフィにも使われていましたが、わが国では平安時代において重要な香の一つでした。この蘇合香に限らず平安時代に用いられた香のほとんどが西洋の香水の調合にも用いられているのです。
奏香とは
近世の香道では、茶室と同様の狭い空間で、香炉に鼻を突きつけるようにして沈香の産地を当てたり品定めを行う遊技(ゲーム)のために奏香されます。
これに対して薫物は空薫物(そらだきもの)と表現されるように芳香は空間に解き放たれ、またあるいは芳香に包まれる、身に纏(まと)うように奏香しますので、両者の奏香方法、思想には大きな違いがあると言えます。
当道の師範の一人は、祖父が病の床にあり余命幾ばくという時に、薫香を焚き染(たきし)めた布を枕元に置かれたそうです。病苦に苛(さいな)まれ、見ることも食べることもおぼつかなくなり死期を悟った老人が、その芳香に頬(ほほ)をほころばせたそうです。それが最後の微笑みだったのでしょう。
また別の門人は、父の四十九日の法要の折に奏香し、蓮を意味する「荷葉(かよう)」という薫物を焚いて故人を偲び、また親族の心もお慰めしたそうです。
当道では、このように「奏香とは人に安らぎをもたらすもの」として、その精神性を大事にしています。
薫物を室内の芳香として、また人を持て成すために奏香するも良し、薫香に包まれて自らと向き合う時を過ごすも良し、その目的は自由なのです。